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シャッター・チャンス
2007 / 10 / 31 ( Wed )
私の趣味のひとつに、写真があります。
趣味のひとつというか、これから趣味にしたいといった方がいいでしょうか。
カメラは、フィルム・カメラで、MINOLTAのα-7です。
21日に、カメラを持って散歩に出かけました。
翌日、現像に出して確認をすると、自分的には案外よく撮れていました。
これまでは、いつもシャッター・チャンスを逃してばかりでしたが、この日は、まあまあの出来でした。
何が違ったかというと、気持の問題でした。
以前は、ずっとファインダーをのぞきっ放しで被写体を追いかけていて、もう少しいい表情をと思っているうちに、後ろを向かれてしまったりして、チャンスを逃していました。
だから、結果的には後姿ばかりを撮っているようでした。
先日は、出来るだけ早めに(少なくとも遅くならないように)と心掛けてシャッターを押したのが、よかったようです。
そうすると、いまいちと思うような写真でも、以前のような出遅れた写真にはならなくなりました。
それは月並みですが、全部を完璧に取ろうと思わなかったということでもあります。
そもそも、素人で始めたばかり(カメラを買ったのは、数年前ですが)の人間がうまく撮れる訳がないのですが、そういう自分を受け入れられない私は、却ってシャッター・チャンスを逃していたのでした。
この日は、その日に撮った写真の中に1枚でも自分が納得できる写真があればいいと思って撮ったのがよかったのです。
今回は、少しだけ、自分がこんな写真を撮ろうとイメージをして、いい意味で頭を使ってみたのもよかったと思います。
何事も、一歩一歩前進ということでしょうか。
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独り100キロハイク(その2)
2007 / 10 / 29 ( Mon )
独り100キロハイクに挑戦して、わかったことがあります。
それは、100里の道も1歩から、の言葉通り、どんなに長い距離を歩くにしろ、1歩1歩の積み重ねだということです。
前回の私は、約40キロでリタイアした訳ですが、ということはそれ以前から足などが痛かったわけで、でもとにかく1歩足を出せば1メートル弱でも前に進むのだと思って歩いていました。
どんなに焦っても、ゴールのことを考えてもその時点での1歩を踏み出さないことには、ゴールは近づいてこないということです。
このことは、最近始めたジョギングでも感じています。
私が走っているコースは、一回りが約1.7キロあります。
体が慣れてきて、周回も少しづつ増えてはいますが、最初の1週を完走しないことには2周目はありません。
とにかく、先のことよりも、今の1歩を踏み出すこと。
私は、まだスピードが遅いので、どんどん追い越されていきますが、それも気にしないようにして、(気にしても元々のスピードがないのだから、少しばかりペースを上げても、ばてるのが早まるだけです。)自分のペースで走るようにしています。
これは、今できることをする、という当たり前のことを私に教えてくれたとも言えます。
近い内に、書く機会があると思いますが、私は、そういう当たり前のことが苦手でしたが、それは、自分と向き合うことから逃げていたとも言え、そのことに気付かせてくれたのが「らくだ」であったとも言えるのです。
話が少し飛躍したかもしれませんが、何かを続ける、継続するということは、いろいろなことに気付かせてくれるものなのかもしれません。
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映画療法
2007 / 10 / 27 ( Sat )
療法とかいう言葉を使うとヒットが増えるかとか思って、療法とタイトルをつけましたが、何も大それたことを書くつもりはありません。
2週間くらい前だったか、弟が、母に見せようと思ってBS2でオン・エアされた『雨に唄えば』を録画していました。
そう言えば、母は、戦後間もない頃の映画をよく見に行っていたと聞かされていました。
そんなことが頭にあって、用事があって池袋に出かけた時、駅で古い映画のDVDを売っているのに出くわしました。
そう言えば、よく展示即売会みたいな形式で、移動式のラックを並べて売っていたりするのを見かけていましたが、興味がないのでいつも見過ごしていたのが、今回は、「あっ、これだ」と私の目に飛び込んできたのでした。
そこで、手始めに『カサブランカ』を買ってみました。
生憎、字幕で、母に読めるのかどうか分かりませんが、筋は覚えているので「まあ、いいか」というような具合で見せてあげているのですが、それなりに楽しんでくれているようです。
少しづつ、あの辺の時代の映画を見つけて買っていってあげようと思っています。
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筋肉痛2
2007 / 10 / 26 ( Fri )
今週の火曜日に、練馬の区立体育館に行ってきました。
ウェイト・トレーニングをしたくて、問い合わせたところ、説明会に出てくださいということで行ってきたのでした。
約2時間の説明会の中で、2種目だけマシーンを使ってトレーニングをしました。
アブドリミナルというマシーンで腹筋と、レッグプレスをやってきました。
久しぶりのマシーン・トレーニングだったのですが、ついつい気合を入れてやってしまいました。
ところが、と言っていいのかどうか、筋肉痛がまだきません。
ジョギングの時は、すぐに反応があったので、まだまだ若い、と自己満足していましたが、今回は、少なくとも腹筋には筋肉痛がきてもいいのでは?と覚悟しているのですが、軽い張りはあるものの、いわゆる筋肉痛ではありません。
もしかして1週間後?とか思うと、何かガッカリという感じですが、それも先のことなのでくるかどうかも分かりません。
今のところ、喜ぶべきか、早合点か、どちらとも言えない状況です。
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教わること、学ぶこと
2007 / 10 / 24 ( Wed )
20日の日経新聞の夕刊の広告スペースに、早稲田大学創立125周年記念広告企画というのが出ておりまして、その中に角田光代さんの「教わること、学ぶこと」というコラムが出ていました。
その中で角田さんは、「小説は教えられて書けるものなのか?とよく訊かれるが、教えられて書けるものではないと私は思う。けれど学ぶことはできる。」「教わると学ぶは、似ているがまったく違う。それを知らない人は意外に多い。」と書いています。
私がこの文章に目が留まったのは、以前に、らくだ教材をやった子どもに何が残るかと書いたことに通ずると思ったからです。
角田さんの指摘には、学ぶ人が主役なのだ、という考え方があると思います。
実際には、このコラムの中では、学ぶ人に必要な環境が早稲田大学にはあるという主旨の言葉も含まれていますが。
確かに、学ぶ内容に適した環境はあると思います。角田さんが、小説を書くことを学ぶために早稲田大学を選んだように。
しかし、それは学ぶ側が選んだことであって、環境があるから育つわけではないことを角田さんは仰っていると思います。
それを「教えられて書けるものではない」と言われているのだと思います。
話が回りくどくなっていますが、教育の仕組みを変えれば、もっと先生の質が上がれば教育がよくなる、というように考えられがちですが、学ぶ側にスポットを当てることも大事ではないでしょうか。
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筋肉痛
2007 / 10 / 23 ( Tue )
今日もジョギングの話です。
2日目、走り出して間もなく、ももの筋肉に張りを感じました。
あ、昨日走ったのが、筋肉痛になっている、と思いました。
そうして自分の体に聞いて見ると、背筋にも軽い張りを感じ、ちゃんと体が反応をしているのだな、と思うとなんだか嬉しくなりました。
やはり運動不足でいきなり走っていますので、体が重いとかいうこともあったり、体はいろいろなことを訴えてきます。
そんな中で、一番残念なのは、以前に書いたことがある左肩のことです。
もともと調子が良くないのですが、ジョギングをするのに軽く腕を振る程度の運動でも、結構痛みがあったことで、走ることに主に関係する(腕が関係ないということではありませんが)下半身の張りとか痛みとかは、故なるかなというところですが、上半身の不調は、少しショックでした。
いずれにしても、普通に考えれば、筋肉痛をありがたく感じる方はいないのかもしれませんが、私は、今回、走りながら身体のあちらこちらに筋肉の張りであったり、痛みであったりを感じることは、体と会話をしているようで、体がきちんと感じるべきことを感じているということが、極端に言えば、生きている実感として感じられて、とてもうれしいことでした。
それも、私の父がそうでしたが、癌が進んで、相当強い痛み止めを打たなければいられないほどのものでないから言えることかも知れません。
まあ、そこまでいくと、痛みに生を感じるどころか、早く楽にしてくれ、ということになってしまうのかもしれません。
ですから、私の実感は、母が、自分を健康に生んでくれたということ、今現在も健康であることに対する感謝の気持ということだったのです。
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規則正しい生活
2007 / 10 / 21 ( Sun )
現在、ひとりで生活をしていると、生活のリズムが乱れがちです。
ネットサーフィンや深夜のスポーツ番組で夜更かしをしてしまったり、いきおい朝のスタートが遅くなり、その日にやるべきことが翌日回しになってしまったり。
何となくだらだらした毎日であることに疑問を感じ、まず、寝る時間と起きる時間を決めました。
寝る時間が遅くなっても、起きる時間は変えないようにして、夜更かしが自分の体調の上でペナルティーになるように考えました。
それから、1週間分の大雑把なスケジュールを作ることにしました。
毎日、やることを明確にすることで、だらだらしないようにできると考えたのです。
そうやって、やるべきことを手帳につけていくと、この日は時間が空くのでこれをやろうとか、この日はタイトなのでこれは日をずらそうとか考えるようになって、1日1日のテーマが見えてきたりして、生活に張りが出てくるようです。
そういう中から出てきたのが、先日書いた、ジョギングだったのです。
こういう生活の方が、体調管理にもいいと思うのです。
10:41:33 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ジョギング
2007 / 10 / 21 ( Sun )
先週から、ジョギングを始めました。
自転車で5分くらいのところに石神井公園という周囲が約1.5キロメートルくらいの池のある公園があります。
その周囲を走ることにしました。
初日、走り出して間もなく、右ひざが痛くなりなした。
左ひざが痛くなることは想定していたのですが、右ひざに痛みが出たのは、少しショックでした。
2日目は、サポーターを両膝につけて走ってみました。
これで、痛みは少し緩和されましたが、思ったようには走れませんでした。
わたしは、週1くらいで水泳に行っていますし、夏くらいまでは塾のチラシをポスティングするのに、不定期ではありましたが3時間くらいは外を歩いていたので、軽い気持で独り100キロハイクに挑戦して、合えなく撃沈したわけですが、今回のジョギングも、いきなりやって出来るものではないことを痛感したのでした。
本当に、もう若くはないのですね。
ひざ痛と言うと、すぐに思い浮かぶのは関節の軟骨の磨り減りですが、わたしは、左に出ると思っていた痛みが右に出たことで、必ずしも間接の軟骨が減っていることばかりが原因ではないと思いました。
運動不足によって間接が固まっている、柔軟性が失われていることも原因であろうと思ったのです。
そう思っていた矢先、新聞記事の中に、ひざにかかる体重の負担を吸収するためには、大腿筋の柔軟性が必要であるというのを見つけ、最近、ストレッチもやってはいたのですが、少し丁寧にやることにしてみました。
3回目にして、少し思ったとおり走れるようになりました。
繰り返しになりますが、もう若くはないので、準備運動と整理運動をきちんとやることが大事であることが分かったことと、もっと一般的な問題として、ストレッチが健康維持のためにかなり有効なのではないかという認識を新たにしたのでした。
10:25:33 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
渋滞
2007 / 10 / 18 ( Thu )
先日、車で蒲田駅の近辺を通った際、京浜急行の踏切を渡りました。
京浜急行も、高架工事をするようですが、何気なく、「まだ高架ではないんだ」と思ったのです。
私は、10数年前、世田谷区にある会社に勤めていて、営業で関越道を使うことがあり、環八(笹目通り)の西武新宿、池袋線の渋滞には、その都度巻き込まれていました。
それが、現在は高架化がされて、環八(笹目通り)の渋滞は、少なくとも西武線が原因のものは解消されました。
この10数年間に、世の中もかなり変わりましたし、今お話したような意味でも、とても便利になりました。
私も、今から後戻りするのは敵わないことだとは思いますが、そうやって技術の進歩に伴って便利にはなっていく一方で、人間はどうなのだろうと、ふと思ってしまったのでした。
確かに、人間は、自分たちを取り巻く環境を自分たちの都合のいいように作り変えて、小さなことで言えば色々な改善をして、これまで生きてきました。
また、これからもそうやって生きていくでしょう。
話は戻りますが、蒲田駅の近くで京浜急行の踏み切りを私たちはたまたまそれ程待たずに通れたのですが、反対車線がかなり渋滞をしていまして、待っている人たちが何を考えているのだろうと思ったのです。
きっと多くの人たちが、いらいらしたり、どうしてこんなところに踏切があるのだとか考えたり、高架にするのなら早くしろよ、とか思ったりしているのかなと思ったりしたのでした。
そんなことを考えるのは、私だけですかね。
でも、もしそんなことを考えていたとしたら、それは、そういうことが可能だからだと思うのです。
そして、それは、あくまで自分の都合のいい方にたった考えです。
もちろん、踏み切りの渋滞は、ほとんどの人がない方がいいと思っていることですので、問題はないのですが。
ただ、まだ頭が整理されていないのですが、我慢するとか、待つとか言うことにも、何か意味があるような気がしたのです。
でも、その先に考えが進みません。
また、気がつくところがありましたら、続きを書いてみたいと思います。
12:00:53 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
経済学検定試験
2007 / 10 / 14 ( Sun )
NPO法人「日本経済学教育協会」が実施している「経済学検定試験」を活用する大学が増えていると言います。
「ゼミで受験を義務付けたり、受験料を負担したりする大学も。学生に目標を与え、経済学を学ぶ意欲を高めようという狙いがある。」(読売新聞より)ということです。
日本経済学教育協会会長の西村和夫・京都大学経済研究所長は、「日本の大学は卒業を認める明確な基準がなく、経済学の知識が身についていなくても経済学部を卒業できてしまう。」と語り、「学生にとってやりがいとなるような試験が必要だ」と考えたのだそうです。
外国の大学に、卒業を認める明確な基準があるのかどうか不勉強なため知りませんが、自分の過去を振り返るとこんなことを言えた義理ではないのは重々承知の上ながら、大学を卒業するという事にもう少し威厳のようなものがあってもいいのではないかと思っていたので、同じようなことを考える人がいたのだ、と思ったりしたのでした。
日本では、大学に入るときのことばかりが話題になって、大学で何をしたのかがあまり問題視されない傾向があるように思います。
理系の人たちは、研究室に入るとそれなりに勉強が必要なようですが、文系の場合は、それ程でもないような印象です。
しかし、私がこの記事を読んで興味を持ったのは、「ああいいことね」、ということとは別の部分でした。
この記事の中には「『ここは試験に出るよ』と言えば、目の色を変えて勉強をします」という教授の話であったり、就職活動で試験の成績証明書を提出したら評価されたとかいう部分です。
私などは、大学の勉強そっちのけで、当時流行っていた現代思想の本を訳も分からず読み、いまだに分かりませんが、大学を出る時には一家言持って卒業しようなどと大志(?)を抱いたりしていたものです。
大学生ができる勉強のレベルがわかっていなかったただの世間知らずだったというだけのことでもありますが。
そういう意味で、今回紹介した記事を見ていると、勉強するのはいいけれど、何か言われたことをやっているだけ、成績とか就職とか(それらも大事なことではありますが)目先のことでキュウキュウしているような印象を受けました。
自分で自分のいっていることが矛盾しているような気もしますが、今の大学生には、もう少しやんちゃでいいような感じがしてしまいました。
08:07:54 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ドーピング
2007 / 10 / 10 ( Wed )
アメリカの陸上選手、マリオン・ジョーンズ選手がドーピングを行っていたことを自ら認める証言をしたということです。
私の弟などは、ドーピングを全て認めたらいいというくらいで、ドーピングについては色々な意見があると思います。
今回も、素人的な意見で、見当違いの部分もあるかと思いますが、一応私はこう考えるということで、お読みいただければと思います。
例えば、私がやっていたスポーツは、オリンピック種目ではないのですが、私がドーピングをしたとして、そのプロ選手になれたでしょうか。
現在はドーピングが禁止されている中で、それが見付からないように行われているので、劇的な効果が現れる薬物が使われていないという状況があるかどうかわかりませんが(きっとそういう薬物は検査で見付かりやすいと思うので)、大人と子どもほどの実力差をドーピングで埋められるとは思えません。
彼らは、例えばオリンピックという人類の頂点を究めようというレベルのほんの少しの差をそれに求めるのであって、ドーピングを使えば、誰でも世界記録を出せるというものではないでしょう。
だから、私はドーピングをやった選手を責める気にはなりません。
ルール違反でメダルを剥奪されるということは致し方ないことだと思いますが、ドーピングを使う以前の努力には敬意を払いたいのです。
そこまでの努力をできる人というのは、実際のところ中々いないのではないでしょうか。
記録を抹消されることは仕方がないかもしれませんが、それで、その選手の全てを否定することをはないと思うのです。
10:13:14 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
上も下もなく、互いに学ぶ姿勢
2007 / 10 / 05 ( Fri )
昨日の読売新聞に、大阪大学学長の鷲田清一氏の文章が載っていました。
その中で、成功する人が備えている要素ということで、松下幸之助氏の言葉を紹介してます。
少し端折りますが、鷲田氏は松下氏の言葉を「見る人を受身ではなく、能動的にする」ようなところを持っていることだと要約しています。
「無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引き寄せ」る人の方が、「一人一人が受身で指示を待つのではなく、それぞれにそれぞれの能力を全開して動く」「活力と緊張感に溢れ」た組織にするのだと言います。
逆に、いわゆる強力なリーダーシップを持つリーダーの下では、受身の部下が育ち、「受身できた者が上に立った」時、「「優等生」」的なリーダーとなって、結局は逆境に耐え切れないと言う結末になってしまう。
これをらくだ的に言いますと、お互いに学び合う関係が大切なことだという事になるのでしょうか。
しかし、鷲田氏が書いているように、今の私たちは、誰かから支持されたり、押し付けられることに「楽さ」を感じ、それに慣れてしまって、自分で考えることを放棄してしまっている部分もあるのではないでしょうか。
どこかの組織でミスがあったとか、不正があったとかいうことがあると、その原因の全てをリーダーに押し付ける様な風潮にも表れているのではないでしょうか。
それが社会から弾力を奪ってきたのではないか。
そのように「社会がこわばってきたときに、わたしたち一人一人にいちばん必要なもの。」は「「しなり」の技だ。」と氏は結んでいます。
とした時に、差し当たり私たちは、先生も生徒から学ぶ、親も子どもから学ぶという気持を持つことで、学校も家庭も、社会も弾力を持ち直し、もう少し生き易くすることができるかもしれません。
10:57:45 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
女子レスリング
2007 / 10 / 01 ( Mon )
始めに断っておきますが、今回の話題は、個人を誹謗中傷するつもりで書くものではありませんし、情報はごく限られたものですので、誤解もあるかもしれませんが、とにかく私が感じた事として書かせていただきます。
昨日の深夜近くのスポーツ番組の短い特集コーナーで、先日、世界選手権(?)で審判の誤審で敗退した女子レスリングの選手が取材されていました。
他のスポーツでも、親子鷹というのはありますが、この選手については、少しお父さんが出過ぎのような印象を持っていました。
お父さんは、ある意味タレントになってしまっていますから、周囲からの要請もあるのかもしれません。
それにしても、あれだけ父親の影響が大きいと、彼女の精神的な成長と言うのはどんなものなのだろうとは感じていたのでした。
それが、この特集では、お母さんにスポットが当たっていたのでした。
お母さんは、負けて泣いている娘について「泣いている娘を見たくない」とか、「(負けてこんなに苦しんでいる娘に)まだ、レスリングをやらせるのか」とお父さんに詰め寄ったりしていました。
それを見ていて、彼女の場合、お父さんばかりではなく、お母さんもかなりの過保護(?)のように見えたのです。
確かに、仲の良い家族というのは微笑ましいものがありますし、お母さんも「うちは仲がいいんだ」と豪語していらっしゃいましたが、親は子どもがいくつになっても可愛いものだとは言いながら、少し、私の感覚からするとどんなものかなと思ったのでした。
繰り返しになりますが、私は、彼女の家庭について詳しい情報を持っている訳ではありませんので、私もやり過ぎには気をつけなければなりません。
という訳で、今回はこの辺で。
11:29:07 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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