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道を譲る
2008 / 04 / 28 ( Mon )
以前に、自転車に乗っている時の話で同じようなことを書いたでしょうか。
いや、ジョギング中に思ったことも書いたような気がします。
しかし、昨日今日と面白いことがあったので書いてみたくなりました。
昨日は、私の走っている公園でお祭りがあって午前中からいつもよりは人が出ていました。
私の走るコースに4段の階段があります。
幅は2メートルほどありましょうか。
そこにジャージを着た高校生くらいの女の子が2人立っていて、片方の子が電話をしていて、もう片方の子は友だちを探している様子でした。
ちょっと邪魔だったのですが、脇をすり抜けようとして足首を軽く挫いてしまいました。
1分ほどうずくまって痛みの状況を見ていたのですが、彼女たち、まったく私のことは眼中にないようで、友達を探しにどこかに行ってしまいました。
私がもう少し気をつければいいことではありますが、自分たちが他の人たちの邪魔になっているという感覚がまったくないのにも困ったものだと思いました。
しかし、走っていて思うのですが、周りに気を使って歩いている人がかなり少ない気はします。
私の方も、走るリズムを崩したくないので、できるだけ立ち止まらないようにしたいという気持もあるので、それもこちらの勝手という側面もあります。
それにしても、例えば今日、3歳くらいの子どもを連れた3組のお母さんと子どものグループがいまして、彼らとすれ違ったのですが、彼らは横に並んで歩いていましたが、友だちとのおしゃべりに夢中で子どもすら見ていないのでした。
それからもうひとつ。
今日、その公園の脇にイタリア・レストランがあるのですが、そこでテレビドラマの撮影が行われていました。
私は、その前を通りかかる度に止められて、「やれやれ」という感じでしたが、ある初老の男性が自転車でそこを通りかかりました。
スタッフが静止しようとすると、無視して突っ切ろうとしていました。
撮影には影響が出なかったようですが、面白い光景でした。
急いでいて文句を言う人はいると思いますが、制止を振り切ってそのまま通り抜けようとする人がいるとは思いませんでした。
いろいろな人がいて、面白いですね。
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自分を編集する
2008 / 04 / 25 ( Fri )
私は、少し変わったところのある子どもでした。
小学校の頃、よくある読書感想文の課題が出され、発表会が行われました。
クラスメートがごく普通に「私(ぼく)だったら・・・」と発表しているのを聞いていて、そんなに簡単に人(登場人物)の心がわかるわけがない、と思ってしまったのでした。
そう考えるようになってから、国語の成績が落ちていきました。
何か主観を排除した本の読み方というか、これが唯一の正しい解釈であるというようなものを模索し始めたのです。
同時に、読む力ばかりでなく、表現する方の力も落ちていったのでした。
うまく表現できないのですが、言葉にできるだけ意思を反映させないような言い回しをするようになった気がします。
結果としては、言うことは言うのでどう解釈してくれても結構、みたいな少し突き放したもの言いになっていたと思います。
もちろん、厳密な意味で客観的な表現というものもあり得ないし、自分の意図したとおりに伝えるということが不可能であることも頭では理解していたつもりでした。
しかし、頭でわかっているのとは裏腹に何かを話す時には、自分の気持を隠し、できるだけ中立的な意思を排除したような表現を心がけ、それでいて理解してくれない相手に対してイライラしていました。
それが、先日ブログでお話ししたと思いますが、NHKの爆笑問題の番組に松岡正剛氏が出演され、話されているのを見て、ハッとしたのでした。
頭ではわかっていた何かを話す(表現する)ということは、自分が見聞きした、あるいは考えたことを脳の中で編集(構成しなおし)しているということを受け入れられたのでした。
その後、松岡氏の著書を何冊か購入、伝える(表現する、話す)ということを学び始めています。
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センスであるとか才能であるとか
2008 / 04 / 24 ( Thu )
何事によらず、センスとか才能がなければダメということを言う人がいます。
私は、そういう考え方というのは、他人事の場合に使う表現ではあるけれど、自分ごととしてみた場合どうなのだろうと考えてみました。
センスとか才能とかがどのようなもので、それを誰が評価できるのかということは別として、例えば自分にやりたいことがあって、誰かに「君にはセンスがないからダメだね」とか言われ、実際中々自分の思うような結果(成績であったり、収入であったり、賞であったり)が得られない現状があった時、どう考えるべきなのでしょう。
私は、そういう他人の評価は気にする必要はないと思っています。
気にする必要がないというか、そういうことを気にするより、自分は何をするべきなのかを考えた方がいいと思うからです。
例えば、自分にはセンスや才能がないとして、才能は生まれ持ったものというイメージがある一方で、センスは磨くという表現もありますから、努力の余地はあると考えていいでしょう。
とした時に、何ができるかと言うと「努力」をすることなら誰でもできるのではないでしょうか。
「努力」が自分の思うような「結果」を保証してくれるわけではありませんし、幸運を祈るのもいいと思いますが、「努力」をして損はないというか、結局はそれしか人はすることがないのではないかと思います。
どんな「努力」をするかは後の問題です。
そこに話が行ってしまうと、前回だかにお話したように頭でっかちという結果になりかねません。
いろいろ理屈をつけることはできますが、枝葉をそぎ落としていくと残るのは「努力」ではないでしょうか。
某社のとったアンケートでは、小学校の子どもをお持ちの親御さんの中には自分のことを自分でできるようになるよりは、塾頭に通わせて勉強ができるようになったほうがいいという意見が半数近くを占めたとあったと記憶していますが、私の印象では、子どもに苦労をさせたくないという気持ちの表れと感じました。
私は、小さい頃こそ、小さな苦労(「努力」)の積み重ねが成果に結びつくということを学ばせることが大切だと思うのですが。
07:40:16 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
好きじゃなきゃできない
2008 / 04 / 21 ( Mon )
私の住まいの近所に公立の中学校があります。
平日はいないのでわかりませんが、土日の日中から夕方にかけて通りかかることがあります。
すると、ほぼ例外なくクラブ活動に励む生徒を見かけます。
生徒たちも好きでやっていることとは言え、大変だなと思うと同時に、顧問の先生もよくやるなと思わざるを得ません。
日本の公立の学校の先生は、教科の指導から様々な雑用まで、何から何まで自分でやらなければならないためただでさえかなり忙しいと聞いていますので、その上クラブの世話までというのは、本当に好きでなければできないことだと思います。
先生も人間なので、完璧を求めても無理なことだと思いますし、先生によって違う部分もあると思いますが、それ程捨てたものではないのではないかと私が近所の中学校を通りかかる時の印象だけですが、感じた次第であります。
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本の管理
2008 / 04 / 18 ( Fri )
皆さんは、一度読んだ本をどうしていらっしゃるでしょうか。
読んだらすぐに古書店等に持って行き、再度読みたくなったら図書館を利用するという方もいらっしゃるでしょうか。
私は、本をそういう処分をすることができない性質なのです。
およそ購入した本は、とってあります。
実際に二度三度と手にする本はほとんどありませんが、背表紙を眺めているといろいろな思考が頭を巡り気持がいいのです。
と言って蔵書リストを作成するということもこれまではありませんでした。
それが今年に入り、ブログに読んだ本の書名をエントリーすることになって、表計算ソフトに整理することにしました。
そこで何かもっといい整理方法がないかと思い、フリーソフトを探してみました。
するとあるものですね。
AMAZONのデータベースを利用して、キーワードやISBN番号で検索して出版社、著者名など様々なデータを自動で取り込めるようになっているソフトがありました。
その中からあるソフトをダウンロードして使用することにしました。
そして、過去に読んだ本も少しずつですが入力することにしました。
そうして過去に購入した本を改めて眺めてみると、かつての自分がどんなことを考えていたのかを思い出して、懐かしかったりすると同時に、中にはまた読んでみたいと思う本が出てきました。
学生時代に背伸びをして買って読んではみたものの、チンプンカンプンだった本にリベンジしてみようかななどと思ったりするのです。
そんな訳で、何冊かピックアップしてみたのでした。
ぼちぼち読んでいきたいと思います。
10:42:12 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
頭で考える
2008 / 04 / 17 ( Thu )
今回のテーマも、以前に書いたことの繰り返しになってしまうような気がしますが、今現在感じていることなので、書いて見ます。
何のことかと言いますと、ジョギングのことです。
先月から今月にかけて、走り方について何度か書きましたが、一応私の中では、これで行こうという走り方を見つけたわけですが、そうすると、走る前に走った気になってしまうのです。
さもなければ、今の走り方ならば何日走れば何キロになるとか、スピードが上がってきているので、今日走らなくても何日で取りかえせるとか頭の中で計算ばかりして実際に体が動きません。
そうしている内に、もう取りかえしのつかないところまで来てしまいました。
走り方を模索している間は、自分は元々長距離は苦手だからという意識で、とにかくコツコツ走るという気持でいましたが、42キロを走ることに挑戦して28キロ走れた(完走したわけでもないのに)、12キロのクロスカントリーを走った、ということでちょっとした達成感を感じて、とりあえず今の自分に満足してしまった感じです。
何日か前にも書きましたが、もう一度走り出さなければと思っています。
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子どもは親を選んで生まれてくる4
2008 / 04 / 15 ( Tue )
A氏は、子どもを受け入れるということは、子どもを自分の言いなりにしようとすることではなく、親の思い通りにならなくても、そういう生き方もあると認められることだと思いました。
考えてみれば、他所のお子さんや、子どもに限らず、会社の同僚や上司、部下、得意先の担当者、ご近所さんなど、いちいち人の生き方に意見を言ったり注文をつけたり、文句を言ったりする人はいません。
それは、もちろんどれだけ身近な存在であるかということもありますが(身近であれば思い入れが強くなるのは自然なことだとは思います)、他人の人生は他人の人生であって自分がどうこうできるものではないと認識しているからです。
どうこうすべきものでもないですし。
相手(この場合は子どもですが)を受け入れるということは、そういうことなのでしょう。
そう考えれば、親が一方的に子どもに指示、命令するという関係はおかしいと思えてきたのだと言います。
かと言って、グズグズしているI君を心穏やかに見ていられるわけではないようですが、以前のように親の方が先にキレてしまうようなことはなくなったそうです。
本人がどうしようとしているのかを見極め、自分は何を援助して上げられるのかをじっくり考えられる余裕ができてきたのだそうです。
いまだI君とのコミュニケーションがスムーズになったとは言えないそうですが、まだ2人だけの生活は始まったばかり、学校生活との兼ね合いから待っていられる部分と焦りが出てしまう部分があるとのことですが、気長に関係を作って行きたいということでした。
私がA氏の話を聞いて思ったことは、親というものは、子どもがいろいろ問題(軽いものから深刻なものまでいろいろあるでしょうが)を起こしてくれることで、そのことで親が学ぶことも多いのだいうことです。
そういうことをある考え方に沿って言えば、子どもは親に自分の足りないところを気付かせてくれ、それによって成長させる役割を持って生まれてくる、つまり親を選んで生まれてくるということになるのですね。
そんな風に私は理解したのでした。
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子どもは親を選んで生まれてくる3
2008 / 04 / 14 ( Mon )
I君は、翌日は学校に行きました。
元の奥さんが心配して電話をかけてきて、「Iは、親が油断をすると学校をサボってどこかで油を売っているかもしれない。去年、先生からも勉強が嫌で、家にいて勉強をさせられるのが嫌、クラブもやめるということになったら学校へ来るのも嫌になって、町をうろうろして不良化する危険性がある。」と指摘されたことを話されたそうです。
A氏は、「まだ学校から登校していないという連絡があったわけでもないのに、勝手に決め付けるのはやめよう。とにかくIを信じよう。」と言ったそうです。
しかし、そう言われてみると、不安が頭をもたげてきました。
彼女の言うようにどこかで油を売っているとすれば、誰かと一緒なのだろうか。学校の友だちか。とすれば誰なのか。その友達とはどちらが誘ったのかもわからないが、親御さんに迷惑をかけたことになっているのではないか。自分はI君の交友関係についてまったく知識がない。
それとも、一人なのか。町で知り合った仲間でもいるのか。
遊ぶお金が欲しくて、誰かに危害を加えることはないだろうか。仲間とグルになって警察の世話になることなどありはしないか。
考えれば考えるほど、不安は大きくなってきます。
仮に、犯罪まで行かなくても、街中をぶらぶらしていて警察官に不審に思われ、職務質問を受けたりして学校に連絡が行ったらどうなるのだろうか。
とそこまで考えた辺りで、「待てよ、もしそうなった時、自分はどうするだろうか」と思ったそうです。
「そんなことになったお前なんか俺の子ではない。」と言ってしまうだろうか。
その時、「あっ、子どもを受け入れるというのかこういうことだったのか」とA氏は気がついたのだそうです。
つまり、いい子だから可愛いとか、言うことを聞かないからものを買ってあげないとか、そういう接し方というのは、その子のある部分だけを受け入れていのであって、その子の全てを受け入れているとは言えないのだ、と。
仮に、自分の子どもが人殺しになっても(少しオーバーですか?)、お前は間違いなく自分の子だ、大切な我が子だ、そういう一種腹を括ると言いますか、覚悟を決めるということが子どもを受け入れるということなのだと思えたのだということです。
(つづく)
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子どもは親を選んで生まれてくる(続き)
2008 / 04 / 12 ( Sat )
昨日の続きです。
A氏は、まずはI君に心を開いてもらうことからだと思い、黙って見守ることにしました。
I君は、新学年の始業式の日、体調が悪いと言って学校を休みました。
A氏は、もしかしてこのまま不登校になるかと思い、I君にそういう懸念を自分が持っていることを学校側に伝えておいた方がいいと考え、担任の先生を訪ねました。
担任の先生とクラブの顧問の先生が会ってくださったそうで、「自分たちは、そういう気配を感じたことはなかったけれど、お父さんがそう感じるということは、何かあるのかもしれませんね」とおっしゃり、協力を約束してくださったということです。
A氏は、I君にどう接していったらいいのかと考える内に、こうしてI君のために自分が悩んだり、解決法を模索するということそれ自体が、自分を成長させてくれる、別の言い方をすると、これまでの自分から(これまでのやり方でこうなってしまったのだから)脱皮できるのではないかと思ったそうです。
そう考えると、自分を困らせているI君が自分を成長させてくれているとも言えるのだなと気付き、「ああそう言えば、何かの本で、子どもは親を選んで生まれてくると書いてあったけど、それはこういうことを言うのか」と思い出したのだと私に話してくれたのでした。
(続く)
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子どもは親を選んで生まれてくる
2008 / 04 / 10 ( Thu )
以前にも、同じテーマでお話したことがあったと記憶していますが(って過去ログを調べてみればいいのですが)、私も頭でわかってもまだ意味がわかっていないなと思うところがありました。
それが、最近知人の話を聞いて、「そういうことだったのか?」とまだ半分くらいかもしれませんが、わかったような気になりましたので、またお話ししてみたいという気になりました。
その知人(A氏)は、一昨年勤めていた会社をリストラされ、出直しを図っていた最中奥さんから離婚を言い渡されました。
それが今年に入って元の奥さんから連絡があり、奥さんが引き取っていた息子さん(I君)を預かることになりました。
その理由は、I君が少し無気力気味で学力も下降傾向、クラブもやめたいと言い出して、このままで行くと不登校になるのではないか。
奥さんの方もこちらが言っていることが通じているのかどうか反応がないため、ついつい頭に血が上って怒鳴ってしまって喧嘩になってしまうという状況になっていたようです。
それで父親の出番となった訳です。
A氏は、リストラされた後の生活が中々安定せず、一瞬「エッ」と思いましたが、ここで拒否をすればI君の居場所がなくなりってI君がますます精神的に不安定になると考え、奥さんの申し出を受け入れることにしました。
そう考えてみると、いろいろなことに気がつきました。
A氏は、不登校になる子どもの中には、親の期待に答えられない自分を責めてそうなってしまうケース、また、親に自分を受け入れてもらっていないという不安感からそうなってしまうケースなどがあると聞いて、これは親が変わらなければならないのではないかと思ったそうです。
また、離婚前のことを考えてみると、確かに仕事が忙しかったことはあったにしても家のことは全て奥さんに任せっぱなしで、時折口を出すだけでした。
それが実際に子どもと暮らすことになって、頭で考えるのとは大分違うようだと気付き、これは奥さんの協力が必要だと思ったそうです。
そうして何度か電話やメールでI君のことについてやり取りをしてみると、結婚生活が続いている時には任せっぱなしで事実上個人プレーだったものが、初めてチームプレーでI君の問題に当たっているという気になってきたのだそうです。
(次回に続く)
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受験の思い出2(人との出会い)
2008 / 04 / 10 ( Thu )
私は、浪人時代に肌の合う先生に出会って、おかげで成績を上げることができました。
その後も何十年か生きてきて、人との出会いというのは、ある意味求めなければ得られないものだと思います。
やはり、人は困った時には、その自体を何とかしようともがきますから、そういうところに人との出会いが生まれるのではないかと思います。
ただ、もがくのであれば、何か行動を起こした方がいいと思います。
行動と言うより、外に向かって情報を発信するとでも言いましょうか。
ただ助けてくれと言っても助けてくれる人はいないと思いますが、自分がこんなことで困っていると言うことを誰かに伝えることで、それが人づてに伝わって、困っていることを解決する方法についての情報を持っている人に行き着くかもしれないからです。
それを内に籠っていたのでは、情報は伝わりにくいと思います。
そうして出会った人が持っている情報全てが自分に合うかどうかはわかりませんが、求めないところには何も集まってこない可能性のほうが高いのですから、やはり、外に出て行くことが大切なのだと思います。
脳科学者の茂木健一郎氏が、アウェーに出ていろいろな経験をすることが大切だということをおっしゃっていましたが、氏は飽くまで脳(力)を鍛えるためという趣旨の発言だと思いますが、その過程には、私が今回お話した人との出会いというものも含まれてくるのではないでしょうか。
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受験の思い出
2008 / 04 / 09 ( Wed )
何度かブログに書いていますが、私は、自分のことは何もできないのに、ゴチャゴチャ屁理屈は言うような子どもでした。
その私が、最初に挫折を味わったのは、大学受験だったでしょうか。
それまでが順調だったわけではありませんが、それまでの結果は、自分が努力をそれほどしなかったことを考えれば、受け入れられる範囲のことでした。
しかし、大学受験は、努力を使用としてもできない、やっても結果が出ない、どういう努力をしていいかわからないというような状況の中での結果でした。
そして、大学受験を終えて私が得たことのひとつは、努力できるということも能力だということでした。
また、とにかくやってみるということの大事さも学んだのでした。
浪人をして予備校に通うことになり、そこで出会った先生がたまたま私と相性がよかったのか、私はその先生について学びました。
そして、比較的早いうちに結果が出て自信をつけ、成績を上げていきました。
今思うと、迷わなかったのがよかったのだと思います。
現役時代は、参考書や受験雑誌などから情報ばかりを集めて自分で学ぶというところが足りなかったのだと思います。
しかし、予備校で出会った先生のポイントを絞った指導に心が吸い寄せられ、その指導に迷わずついて行ったのがよかったのだと思うのです。
後は、毎日勉強をしたことです。
らくだもそうですが、毎日やるのはしんどいことです。
でも、その当時は、今日やらなければ明日の成績が下がると思って、やる気が湧かない日には、例えば当時流行っていた歌謡曲の歌詞を英訳することで感だけは落とさないようにしました。
このことを人との出会いという観点で見る方もいらっしゃるかもしれません。
確かにそういう面はあるのですが、教訓としては人との出会いを待っているだけという訳にも行きません。
そういう意味で、私は、一度照準を合わせたら、結果が出るまでやってみるという気持ちが大切だと思うのです。
それをせずにあっちにフラフラ、こっちにフラフラというように腰が落ち着かないやり方が、一番結果を残しずらいのではないかと思っています。
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三日坊主
2008 / 04 / 07 ( Mon )
私は小さい頃から、本当に何をやっても続かない人間でした。
小学校の高学年の時に担任だった先生は、自由学習という宿題を出していましたが、私は3日出すと何か安心してしまってしばらく間が空いてしまうということがよくありました。
元々宿題の提出もよくなかった私なのですが、なぜやれないのかと聞かれた時に、やる気がないわけではないし、明確な理由もないけれど、何故か3日はできても4日はできないという感じなのでした。
本当に3日もやるとホッとしてしまって気が抜けるというような感じだったのです。
逆に中学の頃からアメフトが好きだとか、間が空きながらも何かしら運動は続けてきたとかいう意味では広い意味では続けることが得意だともいえるのかもしれませんが、短いスパンで考えると本当に続かない子どもだったと言えると思います。
そう考えると、子どもに対する見方も変わってくるかもしれません。
ただ、どうしても学校という枠組みの中で子どもを見ることになりがちなので、と中々そうは行かないかもしれませんが。
そこで今の私、クロスカントリーを走ってから、このブログでも何度か書いていますが、全然走れていません。
クロスカントリーを走って、私的にはまだ先の目標があるつもりなのですが、少しほっとしてしまっているようです。
そろそろ、走り出さなければと思っています。
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レタッチ
2008 / 04 / 06 ( Sun )
昨日は、公園で撮った鳥の写真のレタッチに挑戦していました。
実は、鳥の名前はわかりませんが(鳩かな?)、木の上で2羽寄り添っているのを見つけました。
まるで人間の恋人同士のようでした。
で、写真を撮ったのですが、鳥は木の上ですから見上げるような形になります。
その結果、逆光になって鳥が真っ黒になってしまいました。
これをPHOTOSHOPでレタッチをしたのです。
最初、カメラに付属のソフトのトーンカーブ補正にトライしましたが、鳥の表情(?)がわかるようにすると、背景が飛びすぎてしまいました。
それで一時放置していたのですが、昨日思い立って、PHOTOSHOPのレイヤーマスクをつかってみました。
鳥だけを丹念に切り取り、鳥のレイヤーを何枚かコピーして描画モードをスクリーンにして重ねます。
背景は撮影時のまま(背景を少しいじってもよかったのかもしれませんが)で、鳥だけ明るく補正された写真ができました。
結構時間がかかりましたが、楽しい時間が過ごせました。
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撮った写真を見直す
2008 / 04 / 04 ( Fri )
昨日、あまり自分のブログを見直すことはないとお話しました。
しかし、写真は見直すようにしています。
まあ、必ず毎日とか決めてみているわけではないのですが。
写真は、公開を前提にとっているのではありませんので、恥ずかしいとかいう感情があまりないということもあるかもしれません。
いずれにしろ、自分が撮った写真を見てみると、私が撮る写真なのでいい写真というものもほとんどありませんが、逆に撮った時に自分が持っていたイメージと違う写真に何枚も出会います。
そういう写真について、どこに問題があるのかを考えてみるようにしています。
逆光の時や月などのそれ自体が明るいものなどを撮影する時のカメラの設定など、いまだ解決のついていないものもありますが、自分の写真を見直すことで次に撮影する時に気がつくことが増えてきました。
現在はデジタルの時代で、レタッチが簡単にできますから、構図は気に入っているのだけれど露出がいまいち、などという場合はある程度の補正はできてしまいます。
しかし、レタッチには限度がありますし、レタッチ作業が少ない方が特別な作品を作る以外はいいと思いますし、撮影の時点でクオリティを高めるのに越したことはありません。
そういうことで、写真については見直しをしているのです。

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前を向いて生きる
2008 / 04 / 03 ( Thu )
先日、NHKの「爆笑問題の日本の教養」という番組に、松岡正剛氏が出演されていました。
その番組の中で、大江健三郎氏は自身の小説を何度も書き直され(それが「私家版」とかいう形で出版されている)ていらっしゃるというエピソードが紹介されていました。
私は、正直自分が書いたものを読み直す度胸が持てません。
どうして「度胸」という表現にしたかと言うと、自信満々で書けることが少ないので、自分がどんなくだらないことを書いていたのかを真正面から向き合うことができないのです。
一方で、この番組のホストである爆笑問題の太田氏は、自分が一度書いたもの、喋ったことには関心がない、それを書き直そうとは思わないという立場でした。
誰にしてもそうですが、過去を書き換えることはできません。
ということは、大江氏にしても、書いたものを書き直すということは、過去を書き換えているのではなく、新しい創作を過去の自分の作品をベースにして行っているということなのかもしれません。
私も、自分の過去と向き合えるかどうかは別として(前を向いて生きるということは、過去を受け入れることと関係あるかもしれませんが)、こうやって自分を表現するということはある意味恥ずかしい部分もありますが、やり続けていこうと思っています。
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二軸走法
2008 / 04 / 02 ( Wed )
初動負荷走法というのを取り入れてみて、以前に古武術の本に書いてあった二軸走法とはこういうことだったのかと思うところがありました。
人の体を考えた時、股間というのはいわゆる股のところであって、体の中心にある訳ですが、股関節というのは骨盤と足の骨のジョイントのところなので、体の中心からは少し外側に外れている、つまり少し間隔があるということになります。
初動負荷走法の初動負荷というのは、体(骨盤)を前傾させていくと体が倒れてしまう前に足を出してそれを防ごうとする、ということを言っているのですが、その際、足首、ひざ、股関節を地面に対し垂直にし、その上に骨盤を乗せるようにすると力が伝わりやすくなると言います。
とした場合、股関節は前述のように左右で離れていますので、左右の足から進行方向に直線を引くと骨盤の感覚と同じ間隔の平行線が引けます。
この平行線の上を歩く、または走る感覚を二軸歩行または二軸走法というのではないかと思ったのでした。
実際、この感覚を意識して走ってみると、ロスが少ないということを感じます。
逆に、これまでの走り方がロスだらけで、それで走るのが億劫だったのかと思うほどです。
スタートにしても、私はアメフトをやっていましたが、最初の一歩目に関する違和感の謎が解けたように感じました。
アメフトの場合、単純に前に出ればいいだけではなく、動く方向が多様で、どの方向にスタートを切る場合でも同じフォームをとらなければ相手に自分のやろうとしていることを教えてしまうということはありますが、一歩目を早くと力めば力むほど、スタートが遅れてしまっていたことの謎が解けたのでした。
私が水泳が苦手なのも、フォームにロスが大きく、使ったエネルギーの量に対して距離が泳げないという感覚が原因なのだろうと合点がいったのでした。
ともあれ、初動負荷走法で、私の走りがかなり変わったという実感を得ています。
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兄弟喧嘩
2008 / 04 / 01 ( Tue )
私には、5歳年下の弟がいます。
子どもの頃、テレビ番組の取り合い等で喧嘩になると、母から「あなたはお兄ちゃんなのだから我慢しなさい」と言われ、それがとても嫌だったのを覚えています。
兄弟というのは、いろいろなことで喧嘩をするものですが、こういう対応はどうでしょう。
というのは、例えば弟君が泣いています。
多分お兄さんが手を出したのでしょう。
ここでお兄さんを叱ったりしようとすると、弟君がお父さんお母さんを盾にちょっかいを出し、それにお兄さんが応戦して収拾がつかなくなっていきます。
こんな時、お兄さんに対し、事情は斟酌せず「お前もいろいろと大変だよな」というような感じで、軽くハグでもして、弟君のちょっかいから守ってあげます。
その後で、弟君へのフォローをする。
この方が、双方の顔が立つ対応になるので、いいのではないかと思うのですがどうでしょうか。
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