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運動会
2008 / 09 / 30 ( Tue )
昨年も同じようなことをお話したような気がするのですが、学校で行われる運動会について感じたことがありました。
先日、親戚の子どもの小学校の運動会を見に行く機会がありました。
各学年の競技や演技などが適当に時間的に配分され、飽きないような配慮がされていることには、なるほどと思いました。
一方で、開会式で整列をさせている様子、上着を着ている生徒の上着を脱がせている様子(開会式では上着を脱ぐように場内放送がされていましたが、聞いていない生徒がちらほらいたようでした)を見ていると、軍隊を思わせられてしまいます。
普通に見れば、よく訓練されていて、いい学校で済んでしまうことだと思います。
かと言って、どうすればいいのかということも、今のところ私の中にあるわけではありません。
しかし、小学生と中学生とではかなり違いがあるでしょうが、ある中学校では、運動会の準備から運営まで、基本的に生徒に任せていると聞きました。
私が聞いたところでは、実際の運動会は、生徒が運営するために中々スムーズに進まず、見に行った親御さんによるとかなりダラダラした感じがするということでした。
しかし、教師が主導で見た目には整然として見える行事であるよりは、余程生徒にとっては学ぶことが多いように思います。
ちなみに、私が見に行った小学校の運動会ですが、教職員の競技もありました。それは、ビニール製で空気を入れてプールや海で遊ぶような魚のビーチボールのようなものを魚焼き網に載せて運ぶというリレーでした。
一応網を持つ逆の手を使って魚を押さえてはいけないというルールの説明があった中で、網を持つ手で魚の端を持って落ちないようにして走っている先生たちをたくさん見ました。生徒たちがどう見たのかわかりませんが、先生方がルール違反をするというのはどういうものなのかということも感じたのでした。
そんなこんなで感じることは、学校という場は相変わらず変わらないところなのだなという思いと、学校が変わろうとしている予感の相反する感覚なのでした。
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秋の兆し
2008 / 09 / 29 ( Mon )
すっかり涼しくなってきました。
私がジョギングをする公園には、桜が多く植わっていて春にはとてもきれいなのですが、イチョウの木もところどころに植わっています。
ということに最近気がつきました。
というのは、銀杏の匂いがしているので気がついたのです。
その銀杏の匂いで、秋を感じました。
これから秋が深まってくると、イチョウの葉とともに銀杏も落ちて、それを踏んで歩く人たちがいて、しばらくは銀杏の匂いを感じながら走るのだろうなと思っています。
07:52:33 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
100キロマラソン
2008 / 09 / 26 ( Fri )
今年も、日本テレビの24時間テレビで100キロマラソンへの挑戦が行われ、今回はタレントのエド・はるみさんが挑まれたということでした。
思い起こせば、私が昨年、独り100キロハイクに挑戦しようと思い立ったきっかけになったのが、昨年の同番組で100キロマラソンに挑戦された萩本欽一さんの姿に心を打たれたからでした。
今年は、私は時間がなくて見ていないのですが、今回の挑戦者のエドさんは、以前からいつかこの企画に呼ばれたいという想いからジョギングを続けてこられたそうで、そういう意味ではここ何回かの挑戦に比べると、順当に完走なさったということだったようです。
その何週か後に、和田アキ子さんがご本人の冠番組の中で、エドさんにいろいろ質問をされていらっしゃる中で、「何故、練習をしていて27時間(だったかな?)も前にスタートしなければならないのか」という点を指摘されていました。
どうやら、24時間番組の中で随時マラソンの状況を挿入したいために、走者の能力とは関係なく、番組のスタートと同時にマラソンもスタートをすることになっているらしいということが察せられました。
年齢的な問題や、準備の関係で本当に24時間を要する場合もあるかもしれませんが、そういうことが予想されない場合にもそういう演出が優先されるということに、私は何となく、テレビ局というのは変わらないのだなと感じたのでした。
番組のエンディングにゴールをしてもらいたいというのはわかりますし、そこから逆算してスタート時間を設定するというのは当然のことと思いますが、番組の進行に合わせて休憩を取らせながら走らせるというのは、私の感覚では100キロを走るという行為を軽く見ているとしか思えないのでした。
それともうひとつ、和田アキ子さんが、お友だちと(多分飲んでいる時のことと思いますが)話をしていて、100キロならば、24時間あれば楽勝で歩けるのではないか、それをわざわざ24時間もかけて走ることはないのではないか、というようなことをおっしゃっていました。
100キロを24時間で割れば、約4キロということになり、確かにスピードとしてはさ程速くはないので、ただ歩くのであれば出来ないことはないと考えられたようでした。
これについては、100キロを歩いた経験者である私からしますと、大変な誤解です。
実際、私がそんな感覚で挑戦してみて1回失敗しているのです。
最初の何時間かは、歩く分にはこんなものだろうという感じでいけますが、段々股関節に痛みが出てきます。この痛みは歩けば歩くほど強くなっていきますので、本当に辛いものです。
私は、1回目の挑戦では、雨天で気温が低かったために痛みが余計身に沁みたこともあったかもしれませんが、約40キロでリタイアしました。
2度目は、ある程度ジョギングをして準備をしての挑戦でした。1回トライしてみていたことで少し気持ちに余裕があったことと、準備をして望んだことで、難なく40キロはクリアしましたが、やはり50キロを過ぎた辺りから股関節に痛みが出始め、完歩した時には両足を引き摺るようでした。
和田アキ子さんは、とてもいいこともたくさんおっしゃられるのですが、不得意な分野に関しての想像力に欠けるところがあって、簡単に相手を決めつけてしまうところがおありのように感じています。
ともあれ、エド・はるみさんの100キロマラソン完走を今更ながら讃えたいと思います。
10:13:06 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
平常心
2008 / 09 / 25 ( Thu )
ここのところ、バタバタとしておりまして、ブログをエントリーする余裕がありません。
心技一体といいますが、完全に心が乱れてしまっています。
少しずつ、元に戻していきたいと思っております。
10:00:00 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
手を掛ける
2008 / 09 / 21 ( Sun )
らくだメソッドは、子どもが自分から進んで学ぶようになる学習システムです。
そこには、自分で学ぶことができるようになっているらくだ教材、ストップウォッチ、記録表の3種の神器があって、押し付けない、命令しない指導方針が相まって効果を生むようになっています。
私は、以前、押し付けない、命令しないということの意味をいくらか黙って見守るというスタンスに偏って解釈していました。
しかし、最近、あることを思い出して、考え方を方向転換しつつあります。
そのあることとは、らくだメソッドの研修で、ある知的障害児の生徒さんの記録表を見せてもらったことです。
最初の内は、本当に数字を書くのもおぼつかなく、もちろん記録表など自分で記入できませんから、お母さんがお子さんの様子と共に丹念に記録表をつけていらっしゃいました。
それが、何年目かには、本人が記録表をつけるようになっていたのでした。
私は、どの子にも学力がつくということの実例を目の当たりにして、とても感激しました。
また、その時のことであったか記憶が確かではないのですが、らくだメソッド開発者の平井雷太氏が「障害児を持った親御さんは、お子さんの面倒を熱心に見るけれど、健常児の親御さんは、健常児であるだけで自分で何でもやるものだと思っているかのようだ」とおっしゃられたことを併せて思い出しました。
このようなことを思い出して私が考えたのは、子どもができないことができるようになるために必要なことを本人と話し合い、そこで出てきたことについては積極的に援助をするべきなのではないかということです。
まずはできるようにしてあげて、本人の様子を見ながら、また本人と相談しながら少しずつ援助の手を引いていく、ということでいいのではないかと思ったのです。
甘やかしすぎないために、必要なことの全部を援助することはないでしょう。しかし、例えば5つの援助が必要なことがあったときに、まったく関与しないということでは、まったく泳げない子をプールに放り込むようなものではないでしょうか。(そういう指導法もあるにはありますが)
本人にある程度のプレッシャーを与えつつ、必要な援助をしつつ、少しずつ援助を減らしていく、ということでいいのではないでしょうか。
その取っ掛かりのところでは、いくらか手を掛けすぎるくらいのところから出発するということでいいのではないかと思います。
10:23:04 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ある種の素直さ
2008 / 09 / 19 ( Fri )
以前にもお話したことがあったと思いますが、私は、小学校を卒業する時に担任の先生から色紙をいただきました。
その色紙には、「頭で考えすぎずに、行動して見なさい」という意味の言葉が書かれていました。
私は、少し生意気なところがあって、というか自分の苦手なことであったりやりたくないことをしない言い訳を「そんなことをしたって意味がない」だとか「やる前から結果は見えている」だとか言って逃げてばかりいるような子どもでした。
担任の先生は、そういう私の足りないところを見抜いて指摘してくれたのでした。
そんな私が、自分の過去を振り返ってみて、また接した生徒たちのことを思い出してみて思うことは、自分の能力を伸ばすためにはある種の素直さが必要だということです。
私の母の実家が、最中の皮を焼く職人の家だったので、おじさんの仕事ぶりを見ていて、職人の頑固さのようなものに憧れたときもありましたが、常に向上心を持っている人は、傍からは頑固そうに見えても内面は非常に柔軟な部分を持っていて、いいと思ったことはどんどん取り入れる素直な心を持っているのだということを大人になって知りました。
らくだでも、計算ばっかりとか、毎日やるなんてとか文句の多い子は、実際に成果が現れるのに時間がかかる傾向があります。
一方で、文句を言わずにプリントをこなしている子の方が成果は早く表れるような気がします。
もちろん、そういう子にとっても毎日プリントをやることが大変なのは、文句の多い子と同じことです。
それをどういう風に受けとめるかというところが分かれ目といえるでしょうか。
心の中ではいろいろなことが渦巻いていることだとは思いますが、それをひとまずどこかに置いておいて、とりあえずやっておく、「念のため」にやっておくというようなことを心がけることが大切だということだと思います。
11:42:46 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
丸暗記2
2008 / 09 / 12 ( Fri )
記憶について少し調べてみました。
人の記憶には、感覚記憶、短期記憶、長期記憶という3段階があるようです。
感覚記憶は、一瞬にして消えてしまうのですが、通常私たちが生活をしている上で、例えば今私がパソコンに向かっていて、今(というかすぐ前)に何をしたかを憶えていますが、そういう記憶のことです。街を歩いていて、「あっ、きれいな花」とかいう一瞬の記憶です。
短期記憶は、数十秒の保持時間があり、電話をかけるときに少しの間番号を憶えたりするような、パソコンのメモリーのような記憶です。
そして長期記憶というのは、普段私たちが生活する上でいろいろな活動をしますが、その活動ひとつひとつについて、私たちは過去の記憶を使って行動しています。そういう記憶です。
ところで、短期記憶についてですが、ミラーという人が、人の短期記憶の容量は7±2チャンクであるということを言っています。チャンクというのは、意味のひとかたまりのことを言います。
通常は、無意味つづりの単語と有意味の単語についての対比をするのですが、ここでは意味のひとかたまりということに焦点を当ててみます。
というのは、ある言葉があって、それに意味を感じる人にとってはそれがひとかたまりということになりますが、意味を感じない人にとってはその文字数分がチャンクの数になります。
たとえば、歴史上の人物の名前などがそうだと言えると思います。
「プラトン」と聞いて、興味のある人は古代ギリシャの哲学者の名前だとわかるのでひとかたまりで認識されますから1チャンク、まったく興味がなければ「プ・ラ・ト・ン」と4つの音のつながりとしか感じませんから4チャンクとなります。
つまり、単純に丸暗記をするといっても、暗記をする人がどのくらい興味を持っているか、どの程度基礎的な知識を持っているかで、その負担が変わってしまうというのはこういうことなのです。
そして、短期記憶から長期記憶に移行させるためには、記憶した知識が編集され、それぞれがネットワークを作ることで保持、活用されますから、そこには暗記した知識が他のどの知識と結びついたらいいのかの手掛かりをたくさん持っている必要があります。
そんな訳で、確かに英単語や歴史の年号、元素記号など試験のためにとりあえず暗記しておけということはたくさんありますが、今日覚えて明日使うということでなければ、その効率を上げるためにはある程度の理解が必要になってくるという訳です。
私など、日本史はまったくの苦手でしたが、大河ドラマを見るようになって、ストーリーの中で何人かの人物の名前を覚えてくると、その人との対比などで別の人物の名前を自然に覚えたりするようになりました。
だから、月並みですが、勉強ができるようになる一歩は興味を持つことということになるのでしょう。
話が脱線しそうですが、試験のために丸暗記をして何になるということではなく、丸暗記をするにも単ある程度の理解が伴っていなければ、どんどん記憶がこぼれていってしまうばかりですし、逆にある程度の暗記ができたところから開ける世界もあるのではないかということなのです。
09:04:38 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
コーチ
2008 / 09 / 10 ( Wed )
私の好きなテレビ番組のひとつに、NHKの『プロフェッショナルの流儀』があります。
先週は、あの北京オリンピック水泳で2つの金メダルを獲得した北島康介選手のコーチ平井伯昌氏の特集でした。
人によって色々な受け取り方があるのでしょうが、私は、金メダリストを育てたコーチであっても、完全無欠の人間である訳ではなく、番組の中で紹介されていましたが、選手の一歩先を歩んで行くのだという気持ちで、様々なアクシデントをその都度悩んだりもがいたりしながら乗り越えて来た人なのだなと思ったのでした。
番組では、シドニーオリンピックでの失敗も紹介されていましたが、どうしても北京での成功に繋がるストーリーとして演出されますので、平井氏のその時々の決断が北島選手や中村選手のメダルへと繋がるものとして紹介されますが、当事者にとっては、メダルを取れるかどうかの伸るか反るかの決断だったのだと思います。
もちろん、いろいろなケースを想定して、一番確率の高いと思われる方に賭けるのだとは思いますが、未来を見通せる人は誰もいないので、本当に胃が痛くなるような決断を何度もしてきたのだろうなと思います。
そもそも平井氏は、大学時代水泳部に所属、3年次に監督から新人の指導を要請され、人材の育成に興味を持つようになったのだということです。
そして卒業と同時に東京スイミングスクールに就職、プロのコーチとして歩き始めます。
それから北島選手に出会うまで約10年くらいあったようですが、北島選手との出会いもそうですが、きっといろいろな失敗をして、そこから学んだことは多いのだと思います。
今回のオリンピックのインタビューで、インタビュアーの方が「この4年間は平坦なものではありませんでしたね」と言っているのを何度となく耳にしましたが、人の人生というのは本当に平坦なものではありません。
転んでは起き、また転んでは起きというようなものでしょう。
そういう中で、人はいろいろなことを学び、磨かれていくのだと思います。
テレビで紹介されるのは、今回の平井氏のようにある程度誰が見ても成功を収めた人ということになりますが、生きている全ての人が、同じように人生を送っているのだと思います。
平井氏への取材は今年の6月頃からだったということですが、その何ヶ月前から企画がスタートするものかわかりませんが、もし北島選手がメダルを取れなかったとしたら、どんな番組の構成になったのでしょうか。それとも、お蔵入りになってしまったのでしょうか。そんなことに興味がわいてしまったりする私です。
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子どもとの付き合い方
2008 / 09 / 09 ( Tue )
先日、知り合いのB君の過激な発言から、人が人を一方的に断罪するということを単純に認めていいものかというようなことをお話しました。
確かに、弱いものいじめをして「何が悪い」と開き直っているのか本心でそう考えているのかわかりませんが、そういう子たちを前にしたら、私も言葉を失ってしまうのではないかとは思います。
しかし、そういう子たちは生まれながらにして、もしくはそういう風に育ってしまったのだから、もうどうしようもないと考えてしまったら、それで話は終わってしまいます。それでも人は変わっていく可能性があるのだという希望を私は持っていたいと思います。
少し遠回りになってしまいましたが、以上は前回のまとめで、それを踏まえて私が思うのは、大人と子ども、先生と生徒、親と子どもの関係も、気をつけないと一方が他方を一方的に決め付ける、断罪(とまでは行かないかもしれませんが)してしまっているケースがあるのではないかということです。
通常は、大人、先生、親といった人たちの方が立場的に強く、弱い立場の子ども、生徒を評価したり、押し付けたり、強制したりという図式になっているのではないでしょうか。
悪いことを悪いと叱ったり諭したりすることは必要なことだと思いますが、大人や先生や親といった立場の側が、少し目線を下げると、意外と子ども(生徒)たちといい関係が作れるのではないかと思うのです。
少なくとも、間違いを犯した人を排除するという発想は、例えば子ども同士の中にそういう関係を見出したら、大人(先生、親)は、きっとゾッとするだろうと思います。
とすれば、そういう関わり方を自分がしてはいけないとまず最初に考えるべきだと思うのです。
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母のこと
2008 / 09 / 07 ( Sun )
先週くらいにエントリーした記事の中でも触れていますが、このところ母の体力、気力がめっきり落ちました。
昨日の夕方、弟が出掛ける予定になっていたので、私が母の食事の支度にいく約束になっていました。
言ってみると、部屋は真っ暗で、テレビはついていましたが音は出てない状態で、母は寝ているようでした。
私が食事の支度を始めると、母の呼ぶ声が聞こえたので行ってみると、昼間目が回って怖かったのだと私の手を握り締めて泣きました。死ぬなら死ぬでいいけれど、どうなってしまうのかわからないのは怖いのだと訴えたのでした。
私は、救急車を呼ぶのがいいのかとも思いましたが、体を起こしてお茶を飲ませると少し落ち着いたようなので、食事の支度を続け、一緒に食べました。
その間は、目が回るということはないようでした。
母は気丈な人で、父と私が15、弟が10の時に死別し、もともと体が弱い、学がない、晩婚のため年齢も高いという中で、私たち二人を一生懸命育ててくれました。
その母の、弱さを見たのでした。
これまで、自分の弱さを見せまいと必死で生きてきて、それを私たち兄弟はそのまま受けとめていたのですが、本当はこういう弱い人だったのだとはじめて気がつきました。
私は、ある事情があってしばらく離れていた実家の近くにまたすむようになりましたが、孝行したい時に親はなしとはよく言いますが、今孝行ができているかはまだ少し足りないような気がしながらも、こうして母の側にいられることは幸せなことだと思ったりもしています。
13:17:46 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
話は変わりますが
2008 / 09 / 06 ( Sat )
いつも私のつまらない話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
毎日、何人かの方にアクセスいただいているのですが、アクセスの多い時というのはテーマにその時に話題になっている人を何らかの形でフィーチャーしている場合が多いようです。
つい最近で言うと、体操のルーマニア代表サンドラ・イズバサ選手、芸人の宇治原史規さんを話題に出したときは覿面に効果がありました。
私としては、やはり個人塾(場所は練馬)を経営しているものとして、少しでも多くの方にらくだメソッドならびに弊塾、さらには私という人間を知っていただきたい、そして多くの生徒さんに集まっていただきたいということを願って毎日(とはいきませんが)エントリーしています。
なかなか毎回教育ネタという訳にはいきませんが、何か書けば、そこには私が表れざるを得ないと思って頑張っています。
これからも、何かネタを拾って毎日に近い形でエントリーしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

弊塾にご興味をお持ちの方は、お気軽に話を聞きに起こしください。
開塾時間中なら、時間は問いません。予めご連絡いただければ、時間外でも出来るだけ対応させていただきます。
同様に、是非、無料体験もご利用ください。
たくさんの方のご来塾をお待ちしております。
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丸暗記
2008 / 09 / 05 ( Fri )
先日、芸人の宇治原さんが新聞のコラムに書いていたことを話したところ、次のような質問がありました。
わかるところまで戻ると言っても、試験などでは丸暗記で通ってしまうこともあるのではないか。(だから、わかるとかわからないとかいうのはナンセンスではないか)
私は思うのですが、丸暗記と言っても、その暗記をするテキストによって、その負担にはかなりな違いがあるのではないでしょうか。
例えばそのテキストの構成が、基本編、発展編、応用編などと分かれている場合、やはり学ぶ人の知識のレベルによってどのレベルから学ぶ(暗記する)かは変わってくると思います。
基礎的な知識がしっかり身についていないのに、いきなり応用編に取り組んでもただ暗記することすらおぼつかないのではないでしょうか。
これは記憶のメカニズムからしても言えることだと思います。
人の記憶は、それぞれがバラバラの状態では長く保持できません。そこに物語だったり、他の記憶と絡み合えば合うほど保持がよくなります。
そういう意味では、やはりわかるところまで戻る必要はあると思います。
大体、何かを学ぶことにおいて、暗記がいけないことだとも私は考えていません。
先にお話しましたように、知識というのは単独で脳の中に存在するわけではありません。関連する知識であったり、何か類似するものや相反する知識などいろいろな手掛かりを見つけ、それらと絡み合って脳の中に蓄えられています。
だから、多分、ただ丸暗記しようとしてもどんどん忘れる一方で、暗記した知識を問題を解くことで思い出したり、脳の中に保持している間に他の知識とネットワークができたりして確実な記憶となり、そのことによってまた新しいというか発展的な知識を脳が受け入れやすくなったりするのではないでしょうか。
理解するのが先か、憶えるのが先かという問題ではなく、双方が車の両輪のように作用して学習は成り立っているのではないでしょうか。
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おもしろくなる勉強法
2008 / 09 / 03 ( Wed )
読売新聞の夕刊に、芸人の宇治原史規さんが多分1ヶ月の限定だと思いますが、コラムを担当しています。
その第1回目のタイトルが、今回私が使わせていただいたタイトルです。
ざっとまとめますと、勉強がおもしろくない理由の主なものは、わからないからである。だから、勉強をおもしろくしたければ、自分がわかるところまで戻ればいいということでした。
コラムでは、テレビのチャンネル争いを例に出し、野球とアメフトを引き合いに出しています。
宇治原さんがアメフトを好きだということをこのコラムで始めて知り、さすが京大OBだけあるなどと妙に納得したりしてしまいました。
それはそれとして、おっしゃっていることはまったく当を得ていると思います。
ところが、見栄や外聞から、なかなか必要なところまで戻ることができないというのが実情ではないでしょうか。
しかし、土台のないところにしっかりした建物は立たないので、やりようによってはある程度のごまかしは聞いても、それは付け焼刃にしか過ぎません。
やはり、わかるところまで戻ることが、結局は急がば回れと同じことで、近道なのではないでしょうか。
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人が人を裁く
2008 / 09 / 02 ( Tue )
知り合いのB君と話をしていて思ったことをお話したいと思います。
B君は、30才くらいでしょうか、もちろん仕事は持っていますが、プライベートでは結構やんちゃをしているようです。
正直、あまり深い付き合いはないので、どういう人なのかもほとんど知りません。
B君は、友だちと話していても電話の会話を小耳に挟んでしまったりする時でも「お前、ぶっ殺すぞ」とかよく言っているので、随分元気のいい人なのだなというのが私の第一印象でした。
それでも、仕事は真面目にやるようですし、話をすると、世の中の悪は許せないというようなことを言うので、悪いことも随分してきたとも言っていますが、きっとそれはあくまで内輪のことで、関係ない人に無差別に暴力を振るうというようなことはしてこなかったということなのでしょう。
というのは、そのB君と話題になったのが、少し前に、中学生が障害者を狙って暴力を振るい、お金を巻き上げていたという事件でした。
B君は、中学生の内からそんな卑怯なことをして、捕まっても何の反省の弁がない奴らなんかに更生は期待できない、だから殺してしまった方がいいのだ、と言うのでした。
私も、その事件を起こした中学生に、報道で言われているように開き直られたら、どういう言葉をかけられるだろうかと感じていたので、B君の言葉に考え込んでしまいました。
ただ、今の日本は法治国家になっていて、法律を犯した人は、法律によって裁かれることになっています。
B君は、自分たちがまだ少年で、裁かれるのは少年法によってであって、一般の刑法によってではないことを十分承知の上でそういう犯罪を犯す少年たちに憤りを感じているのでした。
B君が、警察の人と話しをする機会があった時、警察の人が、今は、いわゆる取締りをしようとして多少の手荒な行為に及んでしまったりすると、自分が傷害で訴えられたりするのでとてもやりにくいと話されていたと教えてくれました。
ただ、だからと言って、B君のように殺してしまえばいいという問題なのかというのも大きな問題です。
私は、B君のように考えると、例えば障害者を襲った中学生をある人(X氏)は殺せと言う、しかしそのX氏の何かについて別のY氏がそれを咎めて殺せと言うというような、連鎖を連想しました。
人が人を裁くことはとても難しいことです。
だから法律があって、判決を決めるのは人間ですが、法に照らすことで人間の恣意的な判断を避けるような仕組みが出来上がっているのではないでしょうか。
また、殺すということは、仮に刑務所に入っていても生きているのともうこの世の中にいないというのとでは大きな違いだという視点もあります。
まあ、いろいろな視点があって、本当に簡単に割り切れる問題ではありません。
しかしそもそも、このような法とは何かみたいな問題についてお話しようと思っていたのではなくて、ここでお話したような連鎖みたいなものが、先生と生徒、親と子どもなどの関係の中にも考えられるのではないか、というようなことから、子どもに対する接し方について、何か考えられないかというのが当初のテーマでした。
今回は少し長くなりましたので、その点については次の機会にお話したいと思います。
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資格、試験
2008 / 09 / 01 ( Mon )
今日のテーマは、少し前に構想は練ったのですが、当時は世論もかなりいきり立っていたのでエントリーするか逡巡したものです。
そういうエントリーするかどうか迷ったテーマというのは、自分でエントリーしたかどうか忘れてしまったりするのですが、、過去の記事をざっと見てみた感じではまだのようだったのと、今日、ネットを見ていて、また私の中で当時考えていたことが蘇ってきたので、思い切ってエントリーしてしまうことにしました。
前置きが長くなりましたが、先日、大分県で教員採用試験や校長への昇進試験などで、情実で合格が出されているケースがあったということが明るみに出て、物議を醸しました。
ルールはルールなので、それを破ったことについてはそれなりの処分を受けるのは致し方ないのかもしれません。
私は、今回の事件で当事者となった方がどういう人たちなのか、まったく知りませんので、その中の誰ということではなく、ごく一般的な話としてお話します。
採用試験を受けて、それが不正であったにしろ、合格して採用を受けた方々は、すでにどこかの学校で教鞭をとられているわけです。
そして、それらの方たちの中には、生徒はもちろん、保護者の方からも信頼を受けておられる方も少なからずいらしたのではないかと思います。
医者の世界でも、弁護士でも、それぞれ難しい試験を通ってその職につかれるわけですが、 みながみな一様に患者さんやクライアントさんから信頼を受けているわけではないと思います。
こういうところが人を評価するところの難しさですよね。
学校の勉強ができて、試験に強ければ、確かにその本人の職業選択の幅は広がります。
だからそのために努力をすることはいいことだとは思います。
けれども、そうではない人に価値がないわけではないですよね。
少し話が飛躍してしまっていますが、確かに現行のルールでは試験に合格しなければ、その職につくことができないことになっているのですから、それはそのルールを守らなければならないと思います。
しかし、一方で、その試験を通ればその職に向いているか(向き不向きを判断するのも難しいことですが)というのはまた別の問題だと思います。
まあ、仮に向いていないとしても、試験に受かっていればその権利を行使するのは自由なので、生徒からも保護者からも総スカンをくっていても、何の努力も改善もせず、居座り続けるのもまた自由ではあるわけですが。
そういう人がいるかどうか知りませんが、逆に、試験を不正によって合格するということはよくはないけれど、職についてからは本当に誠心誠意生徒や保護者の方に対応して信頼を得、立派に勤めているのであれば、そういう人に、何とか機会を与えてあげられないかと私は思ってしまうのです。
教育学原理や教育心理学の成績が良かったからといって、いい先生になれるかどうかは問題が違うわけですから。
こんなことを書いていて思ったのですが、日本は、大学でも入るのは難しいけれど卒業するのは簡単だとか言われていますが、教員採用試験の制度を少し変えて(例えば、採用時に必要な最低合格科目数というのを設定する)して、いくらか多めに採用する。
そして、採用されてから数年の年限を区切って、その間に残りの科目を受験して合格し、なおかつ勤務評定のようなもので適正を見ることで、本採用とする、というのはどうでしょうか。
勤務評定というのは当てにならないものになってしまう危惧もありますが、こうすれば、教師になりたい人を今よりは少し多くすくい上げ、また、やってみたら向いていなかったとかいうことを本人も採用した側も考えるゆとりができるのではないでしょうか。
まあこれは、少し話を大きくしすぎてしまって、粗だらけの議論になってしまっていると思います。
その辺は、バカな男の戯言だと思って、ご寛大にお願いします。
11:42:06 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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